昭和47年7月21日 朝の御理解
中村良一
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。どう思わねばならぬのか。有難いと思わねばならぬ、と、私は思うです。ね。雨が降るからえらいと思うてはならぬ。ね。いうなら、しるしいと思うてはならぬ。ほんなら、どうも思わんかというと、それではいけん。有難いと思うわにゃいけん。今日は、ここのところを、一つ、聞いていただこうと思うのです。ね。
その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃというのは、その、雨降りとか、風とかという事を、辛抱するという事ではなくてね。そういう、有難いと思えるおかげを頂くための、日頃の辛抱が、大事だという事。ね。雨ではない、風ではない、平穏無事、ね。そういう時の信心が、辛抱じゃと。ね。だから、常日頃に、そうした、信心辛抱の修行が出来ておるから。雨のとき、風のとき、いや、むしろ、有難いという事になるのです。
今日、こういう解釈で頂いて、初めてですね。私は、ここんところを、一つ、皆さんに頂いていただきたいと思う。ね。雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。ね。そんなら、どう思わねばならないか。有難いと思わなければ徳にはならんですよね。ただ、雨降りに、風吹きに、一生懸命、しるしかばってん、参ったと言うのではね。徳にはならんのです。それを、えらいと思わんではなくて、それを、むしろ有難い、この雨をついて、風をついて、お参りが出来る健康のおかげを頂いておるという事。なんと、有難い事だろうかと、こう言うのである。ね。なら、そういう時に、有難いと思えれると言う事がです。ほんなら、常日頃の辛抱こそが、大事なのである。ね。雨ではない、風ではない時に、しっかり、信心修行を積んでおいて、修行の有難いという事を、身を以って、体験させて頂いておるから、雨だ、風だと言うような、特別、しかも、自然が求める修行ですからね。雨とか、風とかというものは。ね。いわゆる、自然が求め給う、その修行を、いよいよ、合掌して、受けて信心をする、お参りをするという事。なるほど、これだから、徳を受けるのだと思うのです。ね。
えー、もう、椛目の時代でしたけれども、北野から参ってくる、あるご信者さんが、もう、普通は参ってこんのです。そしてその、雨の降る日だけ参ってくるのです。そりゃ、雨の日は、仕事がされんからという意味じゃないのです。それがその、御理解を頂違い。ここんとこの御理解を頂いたわけですね。雨が降るから、風が吹くから、雨の降る日やら、風の吹く日さえ参りさえすれば、お徳を受けると言うような頂き方をしたんでしょうね。常日頃は、参ってこんで、雨の降った時だけ、もう、こう、濡れしもたれになって参ってくる。そしてもう、お広前座って、その人が座ると、お広前がジュクジュクなるごつなる。雨降り、わざわざ、濡れて参ってくるもんじゃき。それでも、やはりですね、そん、何とはなしに、その、そういう励みというものは、着いた途端に、有難くなるもんじゃありますよね。雨にでも、じゅっくり濡れてから、それこそ、雨の降る日は、おじゃるなと言うに、濡れておじゃればなお可愛い、と言ったような、そういう神様の、そういう働きもあるようです。濡れて出てくると。もう、こげな雨の降る日は、出て来んでも良いと。それでも、やはり、あの、お参りをしてくるというね。しかも、それは、やっぱり、修行と思うて、一生懸命参ってくる。けども、確かにその、有難い心が、そんなわけで、生れてくるんでしょうけれども、それは、お徳になると言う様な事じゃないと思うですね。そんなに、雨の日ばっかりち、何時もありませんからね。雨の日ちは、滅多に無い。まぁ、梅雨のうちでこそあれ、それこそ、その、まぁ、毎日降りますけれども、普通は、そう、月のうち、何回か降るぐらい。なら、そん時だけ参って、徳を受けると言うような、そういう極端ね、あの、受け違いをね、してはなりません。
今日はまた、それの所を、反対の意味でのね、極端な表現で、ここ、頂いておるわけですよね。雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。そんなら、どう思わせてもらうか。有難いと思うて参る。ね。それはまぁ、今、言うように、雨か、風ぐらいなら、一つ、雨のときだけ参って、濡れしぼたれで、金光様、金光様で参ってくるなら、確かに有難くなろうけれどもです。ね。これが、ね。自然が求め給う、例えば、至上、ね。自然の働きのなかに起きてくるところの、これが人生の雨であろうか、風であろうかという時なんです。ですから、この雨風はね。なかなか、有難くは受けられんのです。稽古をしとかんと。そして、神様の、間違いなさ、一分一厘、間違いないお働きというものをです、頂いておかんと、ね。人生の雨風はです、ただ、この、普通の雨であり、風であるならば、まぁ、言うように、それは、有難く受けられるかも知れんけれども。人生の雨風と言うのは、そういうわけに行かん。もう、吹き折れようごとなる。それこそ、もう、濡れしぼたれという様な時ですわね。人生の雨風。言うならば、その、人生の荒波を乗り切るといった様な事を申しましょう。ね。だから、人生には、やはり、荒波があると言う事なんです。だから、人生にも、やはり、雨があり、風があるという事です。ね。そういう時にです、いわば、濡れんで済む信心。そういう時にです、ね。挫折せんですむ、折れんで済む信心。ね。しかも、それをです、有難く受けていけれるという事が、なんと有難いことかというわけです。ね。信心させて頂いておって、どうしてこんな事がと、言うほどしの時ほど、分からん。ご深慮の深さというものが分からん。分からんけども、そういう時ほど、確かに、神様の特別の働きを頂いておるという事だけは、体験によって、分かってくる。ですから、そこは、もう、詮索しようとしない。もう、ここが、ご深慮の深いところだからと思うておるのですから。だから、お礼を申し上げる他には無いという事になってくる。だから、徳を受けるのです。
この頃、私共の、康子の父なんかの場合、恐らく、それによってお徳を受けたのは、私一人じゃなかろうかと、こう思うんです、ね。そしたら、いやぁ、まぁ、姪じゃから、姪ぐらいじゃからというけども、本当いうたら、もう、子供と同じだったんですよ、私としては。むしろ、人情は、康子の方にかけていったくらいです。ね。康子と愛子と二人で遊んでいるなら、抱いたのは、康子しか抱かなかったんです、私は。本当ですよ。ね。それは、どう考えても、やはり、自分の子供のほうに、早う手が行こうごとあるです。けれども、そこんところにです。ね。同じに見なければと思いますから、せめて、形の上だけなりともと言うのが、康子を先に抱くという様な行きかただったんです。ですからもう、情の上においては、康子のほうが、随分、上にあったんです。ね、一緒に育ったんですから、みんな。ね。それが、しかも、あっという間にです、ね。それこそ、あの、どんなに考えても、本当と思われないような、いわば、お国替えでございましたからね。そん時に、涙一滴も打たんな、後から、段々、淋しゅうなったり、悲しくなったりするだろうと言うのじゃなくて、段々、有難くなってくるという事実が、私の心の中にあるという事です。
私は、始めて、昨日、まぁ、ついで話ですけれども、康子のお夢を頂いた、昨日。それが、生前よりも、もっと肥えて、ふわぁーっとしとりますとですもん。そしてから、康子が残って、勝美さんが亡くなってるとです。それで、私が、康子に、まぁ、勝美さんがなくなったつは、悲しいことだけれどもね。けれども、また、新たな養子を迎えじゃこてと、私が言うたら、もう、顔を真っ赤にしてから、勝美さんも、あの、生前は、そげん言いよったと言うてから、真っ赤な顔してね、言うたところを、私が頂いたんです。まぁ、夢は逆さまと言うが、ほんなことだなと、私は思いましたけれどね。また、養子を迎えれと言うたら、顔、真っ赤にしてから、勝美さんも、そう言いよったと言うのです。という様なその、お夢を頂いた。ね。そういう、例えば、働きを、その、頂いております事も、確信できますしね。まぁだ、分かりません。いわゆる、分からないけれども、その、分からないところを詮索しようとは思わない。ね。けれども、そこの分からないところこそが、人智人力をもってを持って、分からないところこそが、神力のすべての所であるし。ご深慮の深い深さは、そこにあるのであるから、どういう神様のご深慮があるやら分からんと思うから、そこを大事にしなければおられない。ね。もう、言うならば、もう、濡れしぼたれになるような事に出会いました時にです。ひとっつも濡れてはいないという事。いつも、安心の傘を差しておるという事。安心の雨合羽を着ておるという事。雨が降っておる事は事実なんだ。ね。そういう、可愛いもの、いわば、ね。亡くしたと言う、その苦しみは、亡くしたという事は事実なんだけれども。ほんなら、苦しいという事では、私の場合は無いという事。ね。死んだけん、ありがたかと言うのじゃないです、ね。その時点で、有難いというものがです、ね。いよいよ、神様の、深いお心に触れていけれると言う、それが、有難いのです。いや、楽しいです、それは。ね。これなんかは、さぁ、、人生の、その、雨風にあってもです、折れもしなければ、濡れもせんで済んでおるという事が、いわば、有難く受けると言うことです。ね。ですから、もう、こういうその、ぎりぎりの所の事を、皆さんに、今、有難くなれとは言いません。けれども、日々、起きてくる、その、些細な事柄の中にですたい、・・・。ね。
昨日も、おいわせの中村さんが、昼の御祈念に参って見えます。前の日、お参りして来よってから、自動車で、ちょっと、スピード出しすぎたもんだから、白バイに捕まったわけです。それで、そうにゃ断り言うたけれども、とうと、三千円とられたと、こう言うわけです。それがもう、今日まででも、すっきりしてないと、こういう訳なんです。ね。それで、昨日の御理解頂いて、ようやくこう、すっきりしたようですけれども、まぁだ、本当のすっきりじゃ無かろうごたる。お参りしよって、帰りに罰金取られてなんて、自分の油断しておる事は、棚にあげておる。お参りさえしよらもう、お参りの帰りなら、もう、そういうことじゃない。そりゃもう、お参りどもしとらんなら、どういう事があったのか、実は分からん、という様な、思い替え的な頂き方もあるんですけれども。そういうことは思わなくても、もう、その時点で、おかげ頂いたと言う、これなんです。ね。だから、そのくらいな事ならばです。その時点時点で、おかげ頂いたと、言えれることが、皆さん、あるでしょうが。だから、それが、ほんなら、小さいこと、大きなこと、中くらいな事と、区別は、大体は無いはずなんですから。けれども、さぁ、そこが稽古なんです。ね。そして、なら、人生の、本当に、雨であろうか、風であろうかという様な時にあたってですらも、それを、合掌して受けていけれると言う、私は、そういう心の状態をです。身に徳を受けていくという事。ですから、ね。信心とは、なるほど、一段一段、登っていかなければいけません。そして、二階なら二階に上がった世界がです。そこには、言うならば、次元の違った世界とでも申しましょうか、があるわけです。ね。もう、普通の人間では考えられないことが考えられておる。普通の人間では、もう、腹を立てるのが当たり前という事に、腹を立てるどころか、有難いと言うておるのですから。これはね、次元が違わなければ出来ません。ね。いわゆる、あの人との次元が違う。だから、信心のある者、無い者の違いをです。そのような見方をしていかなければいけない。ね。その、一段一段、登らせて頂いて、そしてその、二階に、この二階の世界こそが、まぁ、いうならば、ね。御神徳の世界と言うても良いでしょう。次元の違った世界と言ってもいい。いうならば、神ながらな世界だと、こう言うのです。
そこでです、そんなら、雨の降る日にだけ、ね。お参りをすると言う事がです。ね。なるほど、修行と思うて、今日いっちょ、雨の降りじゃけん参ろうという、そういうところから頂くおかげと言うのは、これは、ね。まぁ、いうなら、神ながらなおかげではなくて、ね。神様に、まぁ、強要したおかげという事になりましょうか。ね。私は、この雨の降る日にでも、いっちょ、あなたの所にお参りしますから、その修行と受けてください。そしておかげを下さいといったようなものですから。ね。神様に、言うならば、強制、強要するようなおかげです。ね。大体、日本の宗教と言うのは、そういうのが、過去においては多かったですね。断食をするから、おかげを下さい。ね。言うならば、茶断ちをするから、どうぞ、願いを成就させて下さい。だから、金光様のご信心では、そういうのは、だから、信心じゃないと言うても良いくらいです。ね。信心とは、どこまでも真心です。信心とは、どこまでも信ずる心。信心とは、どこまでも神心なんですから。それが、金光様のご信心なんですからね。ですから、常日頃に、信心の稽古をさせて頂いて、言うなら、雨じゃない、風じゃない、平穏無事の日に、しっかり、信心の稽古を、そこの所で辛抱し抜かせて頂く稽古をさせて頂いて、日々の、言うなら、些細な事柄の中から、それを即、有難い、おかげ頂いた、大難を小難でという様な頂き方なんです。ね。それが、段々段々、少しは、骨のあるような事柄の中にもです、それを、有難いと受けれれる、ね。もっともっと大きな、目の前が、普通で言うなら、真っ暗になる様な事ですらも、有難いと受けれるような信心。ですから、やっぱ、稽古ですよ。出来んこつはない。それが、私は、一段一段、上っていくことだと、こう思う。そして、神ながらな世界に出らなければならん。ね。それはもう、私が、何時も申しますけれども、・・・。
昨日は、あの、大阪の泉南教会の先生方ご夫妻が見えられて、ちょうど、椛目の時代に、息子さんが、修行に来ておりました。若先生と、そのご兄弟が、学院が一緒で、あちらへ行ったたんべんに、大変お世話になる教会で、もう、それこそ、あの、ここの一時の御祈念の、あぁいう御祈念は、泉南教会のそれを、そのまま頂いて来とるといったような感じです。合楽では、あぁいうことは無いでしょうが。けども、その、それはもう、大変な勢いで、・・・。私は、だから、そういうような教会の先生ですから、もう、随分、お年の方かと思うておった。若いです、聞きましたら、私よりも一つ上だそうです、丑年ですから。それでいてから、もう、とにかく、二十ぐらい若うありなさる。四十ぐらいにしか見えないです。はぁ、元気のある教会は違うと思いました。もう、それこそ、隆々たるゴヒレイを受けておられる教会です。それで、もうあの、ご参拝だけで、すぐ帰ると仰いましたけれども、あの、ちょうど、夕飯前でしたから、あの、泊まっていただいて、それでご一緒に、夕食をさせて頂きました。それで、私はあの、お食事の時に、いやぁ、こら、えらいまるきりもう、高級割烹に行ったごたる料理ねと言うて、私は、頂いたんですけれどもね。その、様々なのがです、一番にかいたわけでもなんでもない。今朝、これは、誰々さんが持って来て下さった、今日、昼、これは、誰々さんが持って来て下さったんですよというものでです。ね。そんなら、一流割烹で頂くようなものを、私は、昨日の夕食の中で、何時もじゃない。けども、そういう時には、その様に、私は、頂けれる世界を、神ながらな世界だと思いますね。ね。いわゆる、いうならば、一段一段、登った、そこの登り付いた所にです。一切を、有難く受けれれる世界がある。いうなら、次元の違った世界に住むことが出来る。私は、そこの所をね、お互いが目指させて頂かなければならぬ。ためにはです、私共が、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬと仰る。ほんなら、えらいと思わんなら、どげん思うか。どう思わんちいう訳はない、ね。えらいと思うてはならん。えらいと思うのではなくて、有難いと思わなければならん。ほんなら、有難いとは、ほんなら、すぐには思えないという事。やはり稽古。そして、本当な事が、少しづつでも分からなければならない。それこそ、ね。その時点では、神様のお心が分からん。どうしたことじゃろうかと思うような事がです。ね。ここが、ご深慮の深さであるとして、ただ、そのことを、そう、ひたすら頂いていくことだけで、なら、五年たち、十年たちしてみてです。なるほど、こういう深いご深慮のあっての事であったと分からせていただく。それが、繰り返されていくうちにです、ね。その事が、神様の、もう、特別おかげを下さろうとする働きであるといった様な事が分かるから、その、雨が降っても、風が吹いても、その時点で、有難いと思えるのです。ね。だから、お互いの場合は、えらいと思いながら、ね。有難いこととは思うばってん、やっぱり、えらいと言うのが、普通じゃないでしょうか。だから、そこんところを、もっともっと、すきっとして行く事の為に、常日頃に、辛抱しておけという事である。平穏無事な時に、ね。そして、日常茶飯事の中に起きてくる、様々な問題を通してです。このくらいな問題なら、即、有難く受けられる。如何に、お参りの帰りに金を取られたと言うても、なるほど、三千円も、お参りしたばっかりに、三千円取られたというたら、もうほんに、参らんほうが良かち、もう、そこで挫折するわけです。ね。折れるわけです。ね。それではなくてです。もう、本当に、おかげ頂いたと言うもの。これはもう、理屈じゃないです、その時点で、有難い心が出てくるという事は。稽古です、やはり。ね。ですから、そういう稽古、それが、ほんなら、雨の降らない時、平穏な時に、その稽古をしっかりさせて頂いて、いよいよ、雨が降ったときに、風が吹くときにです。ね。それが、その、降った時点で、折れんでも済み、濡れんでも済むほどしのおかげを受けて有難い、ほんに、信心いただいとらんなら、それこそ、濡れしぼたれじゃろうけれども、信心いただいとるおかげで、ここを、この様な境地で、受けていけると言うことは、神様、何と、有難いことだろうかという事になる訳ですよ。ね。それが、徳になるのです、ね。そういう、一段一段を、登りつめさせていただく上にです、いわゆる、次元の違った世界というか、ね。神ながらな世界というか、ね。為には、やはり、一つ、人ながらの信心修行が必要であるという事。人ながら何て言葉は無いですけれど、神ながらに対する人ながら、ね。人間で出来ることの限りを尽くしてと言う意味で、私は、人ながらと言ってる。ね。それが、一段一段、登る時である。その屋上が、いうならば、神ながらな世界である。ね。
ただ、これを、表行に見るとしましょうか。ね。ただ、何かお願いせんなん時、断食する。ね。何かある時に水行をする、という様な修行であったらです。ね。それは、神様に、いうなら、雨の日、風の日をです、ね。その時だけを、お参りしてきて有難いと言ったようなものじゃないでしょうか。北野の、○○さんじゃないけれど。ね。普通の日は参ってこんで、雨の日だけ参ってくる。そるけども、やっぱり、濡れしぼたれて、金光様、金光様と言うて参ってくるけん、ありがたかこつだけは間違いなか。はぁ、断食をしたり、水を掛かったりするとです。やっぱ、有難いことだけはありがたか。ね。けれども、神様を、言うならば、揺さぶるようにして頂くおかげですから、それは、神ながらなおかげではないて。だから、そういう信心は、今、申しますように、ね。神ながらなところへ到達は出来ません。ね。もう、御道の信心は、どんなに言うてもです、常日頃の信心が肝要じゃという事です、ね。だからこそ、ひとりでに物が出来るようなおかげという事になるのです。ね。そういう、信心をいただこうと、一心を定めると、もう、その修行は、せんでも、おかげの印が、必ず、向いてきます。ね。
御理解三十六節にね、草木でも、芯というたら一つじゃ。神信心も、この一心を出すと、すぐおかげが受けられうと仰るのです。この一心を出すとです、ね。すぐ、おかげの印が見えてくるです。ほかの事に一心じゃいかん。一つ、断食するぞという様な一心じゃいかん。水をかぶるぞなどという一心じゃいかん。今、私が、申しましたようなです。本当に、常日頃の信心が、大事だと。そして、まさかの時には、それこそ、ひとりでにものが出来るようなおかげを頂くことのための修行を、常日頃、本気でさせて頂こうと言う、一心発起をするならです。それが、成就しない先に、もう、神様は、おかげの印を見せてくださるです。これは、不思議です。神様の思いに、ぴたっとはまるからですよ。ね。
今日は、ただ、そこのとこだけを、今日は聞いていただいたですよね。神参りをするには、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそに、徳を受ける修行じゃというところ、ね。その辛抱と言うのは、雨の降る日に辛抱すると言うのじゃない。常日頃、辛抱しておけと言うのである。だから、雨降りの日は、えらいと思わんで、ありがたいと思えるほどしのおかげが受けられる。そういう、例えば、おかげを受けるからこそ、普通で言うならば、濡れしぼたれの所を、濡れんで済むほどしのおかげ。雨風の時に、えらいと思わんで、有難いと思える心が、そのまま、徳を受けていく信心なのです。どうぞ。